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2013年3月10日 (日)

「正しさ」の目的。

「正しさ」について、昨日(というか今朝)の政治屋たちの「大激論」をみながら思ったこと。

河村たかしが名古屋市職員の平均年収を下げたことを誇らしげに語るのに対して、片山さつきが平均収入なんて、内訳がどうなってるかわからんのに、そんなものを比較しても意味はないとか、カットしたとはいえまだ高いとか、河村の主張の「間違い」を懸命に指摘し、自分の「正しさ」を繰り返し叫んでいたのを聞き、どうして片山さつきの言うことは正しいのに共感できないのか(共感どころか辟易する、、、)、を考えていて、わかったこと。

それは、片山が主張する「正しさ」が、河村に「自分が間違ってた、参りました」と言わせるため「だけ」のものに聞こえるから、なんじゃないか。誰かを負かすこと、それが目的の「正しさ」だとすれば、なんとも醜い。

・・・「平均」にさして意味がないことなんて、誰でもわかる。

100点が5人、0点が5人のクラス...の平均点は50点。
60点が3人、50点が4人、40点が3人のクラスの平均点も50点。
この2クラスが「同じ」雰囲気だ、なんて誰が思うだろう。

平均収入を下げるには、低い収入の人を大量につくれば、高収入の人が少々いたって構わないのだから、、、片山の主張は「正しい」し、河村に「勝ち目」なんてない。

なのに、なぜここまで執拗に片山は河村に「オマエハマチガッテイル」と言い続ける必要があるのかと思うと、河村自身に白旗を揚げさせたい(そうして「河村を降参させた自分」の優位を他に示したい)だけ、と考えるほかない。

政治屋さんたちの議論(というか、各々の主張対決)は、往々にしてそういうものだ。自分が他より勝っていることを顕示するだけのために自分の「正しさ」を大声で叫ぶ。

目的が自分にあるのではなく、社会的弱者のために、声をあげることすらできない苦しみの中にいる人たちのために、「正しさ」が叫ばれるとき、それは美しく、共感できるものになるのだと思う。

そういう政治家たちの対話なら、何時間でも聴きたい。

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